遊牧民とは?

1.遊牧民とは?
中央アジアから中東、北アフリカにかけての地域で、羊やヤギなどの家畜を連れ、水と草を追い求め、一年中移動生活をしていた人々です。
2.移動生活とは、大変だったと思うのですが?
地球の半分以上が乾燥地帯です。水の少ない土地での最良の生活スタイルが、当時では遊牧生活だったのです。厳しい生活であっても、それは彼らにとり、当たり前の生活だったはずです。
 
3.どのような生活をしていたのですか?
家畜の飼育は男性の仕事です。男性たちは、家畜を連れ草原や山に鍬を食みに出かけます。力仕事や春秋の家畜の毛を刈る仕事も受け持っていました。
 
4.遊牧民の女性達も忙しそうですね?
朝暗いうちからの乳搾りや家畜の世話で、女性たちの一日が始まります。
絞った乳の加工、家族の日常の面倒、家事が終わった日中は、キリム織りに忙しく手を動かします。陽が落ち始めると、戻った家畜と家族の世話、日々、かなりの重労働をこなしていたのでしょう。
 
5.遊牧民の家族構成は?
両親にその兄弟、元気な祖母や祖父、そして子供たちで、約10人が平均の家族構成でした。
 
6.一家族でどのくらいの家畜を飼育していたのですか?
羊が約700頭、ヤギが約300頭です。その他に、移動の際先頭するラクダ、ロバや犬などの家畜を含め約1000頭が必要でした。
 
7. 遊牧民はどのくらいの距離を移動していたのですか?
アナトリア地域の遊牧民は、毎年同じ地域を、北から南へ移動しました。その距離は年間400~500kmだと言われます。
 

遊牧民のテント:

8.どの位の大きさのテントですか?
直径4~5mのワンルームのような大きさです。厳しい暑さ、寒さ、雪、雨、地震などから身を守ってくれたのがテントです。テントは、入口と頭上に、直径1㎡ほどの明り取りがありました。
9.テントの中はどのようだったのですか?
遊牧民は私達と同じく、部屋の中では靴を脱ぎます。テントの中は湿気除けや寒さ除けに、床にキリムや布が敷かれました。
キリムは彼らのインテリアであり、実用的な家具だったのです。
10.遊牧民がテントで暮らした訳は?
乾燥地帯で牧畜を営み、その羊やヤギに適した草地を求め、馬やラクダで移動を繰り返したのが遊牧民です。常に移動を繰り返すため、簡単に組み立てたり、解体したりできる天幕やテントが最適な住居でした。
 
11.その毛が家具になったのですね?
彼らは、移動に不便な木の家具は持たず、移動が簡単なように、すべての生活道具を羊やヤギの毛を使い作りました。軽くて、コンパクトになることが絶対条件で、物入れのみならず、テントの屋根にも、壁にも、床にも毛を用いていました。
 
12.テントが生活の場のすべてだったのですか?
テントは限られた狭い空間です。そこは日々の生活の場であり、来客の接待場、乳製品に加工する場所であり、キリムを織る準備をする作業場であり、夜は寝場所となりました。
多目的ルームは時に、キリムで間仕切りされ、カバーされたりして使われました。
 
13.電機がない時代、暗い場所での作業は限界がありますが?
キリムを織る作業は、日中の日の高い時間にテントの外で行われました。貴重品であるキリムを織るには、光がとても大事だったのです。光の下で出来る仕事は、出来る限り自然の中で行いました。
 
14.衣類はどのように保管したのですか?
衣類は、「チュアル」と呼ばれる、120x80cm位の大きさのクッションのような袋にしまわれました。これが私たちのタンスやクロゼットです。
テントの中では、風や寒気を防ぐ大きな袋であり、寛ぐ際のソファの背もたれの役目を果たし、テントの中を様々な色調で、暖かい楽園のように飾ったインテリアでした。
15.穀物や小物などの袋もありましたか?
小麦などの穀物や小物などは、チュアルや「ヤストク(枕)」と呼ばれる90x60cm位の袋を使いました。
ヤストクは、寝る時は枕、寛ぐ時はクッション、そして移動の際は、穀物や小物の保管袋として、大活躍しました。
 
16.その他に、どのような生活用具がありましたか?
貴重な岩塩を入れる岩塩袋には、手の込んだ飾り物が見られます。
食卓は「ソフレ」と呼ばれる正方形や長方形の織物で、このまわりを車座に囲み食事をしました。
ロバの背に振り分け両側に袋が付いた「ヘイベ」など、盛りだくさんです。ゆりかごやユリカゴカバーもあります。

岩塩袋
ゆりかご
ゆりかごカバー
17.このテントの中にどれくらいのキリムが使われたのですか?
嫁入りする娘は、衣類や小物、道具を収納する袋13枚を初め、天幕の入り口に掛ける装飾キリム1枚、岩塩袋2点などを含め、25~26枚のキリムを持参品として持ち嫁ぎました。

テント入口飾り

遊牧民のキリム:

18.25~26枚のキリムはいつごろまでに織り終えるのですか?
遊牧民の娘は平均、15~16歳で嫁入りしたそうです。
母や祖母はこの短い間に、持参品キリムを揃えなくてはなりませんでした。「よき織り手は、その家に幸せをもたらす」と言う、言い伝えがあるほど、織りの技量が、娘の評価に直結していました。
 
19.持参品キリムに対し、男性側からの返礼はありましたか?
遊牧生活において、女性は大切な働き手でした。忙しい家畜の世話をし、家事をこなし、キリムを織る。大事な働き手を嫁にもらう対価として、多大なお金すなわち家畜が返礼として娘の実家に贈られました。その数は、キリムの出来の良し悪しで決まったそうです。
 
20.遊牧民にとってキリムとは何だったのですか? 
キリムは彼らの家具であり、娘の婚礼の際の持参品であり、貴重な財産のひとつでした。
また、生活空間を彩る装飾品として生活に潤いを与え、キリムに自己を表現する織り手たちの創造性や感性を磨き続けた、生きる友でした。
21.普段の生活では使わない、特別なキリムもあったのですね?
私たちの正月、親族の集まりや、客人を招いた日は、上等で特別なキリムが使われました。また、何の前触れもなく訪れる旅人は神様が使わした贈り物として、 手厚くもてなす意味で、長さ約4m、幅が1mほどのランナーを敷き、大歓迎しました。旅人は、新しい情報を運んで来る、神様のような存在だったのです。
客人たちは、キリムの品定めをし、その家の財力や織り手のセンスや目配りの高さなどを推し量ったという事です。 
 
22.キリムは初めから幾何学文様だったのですか?
現在のトルコ共和国の先祖であるトルコ族は、6世紀シベリアからより家畜の飼育のしやすい土地を求め、西へ移動を始めました。
独自のシャーマニズム(古代宗教)を信仰してきた彼らは、花、鳥、自然などを具象柄で織り込んでいたと考えられています。つづれ織りと言う技法がそれを物語っています。
 
23.いつから幾何学文様になったのですか?
彼らがアナトリア(アジア側トルコ)に到着した11世紀、そこはすでにイスラム教の支配下にありました。
彼らは、礼拝,喜捨、断食や偶像崇拝禁止など、イスラム教の様々な戒律を守ることを誓いました。偶像崇拝を禁じるイスラム教と古代宗教の融合でも、これまでの自由な創造性を否定することなく、彼らは幾何学文様を受け入れていきました。
24.トルコはイスラム教の戒律が厳しいのですか?
トルコ人の多くが、イスラム教スンニー派です。なにより大切なことは、一日5回の神様へのお祈りです。現在でも,礼拝の時間を知らせるアザーンは、私たちの耳にも心地よく響きます。
 
25.モスクに行くのですか?
そうです。多くのモスクの床には、寄進されたキリムや絨毯が敷かれています。キリムの多くは、礼拝用デザインの「ミフラブ文様」です。メッカに向かいお祈りをする人々に、その方向を示すのがミフラブでアーチ型の窪みのあるキリムです。
 
26.トルコの遊牧民のキリムは、どこよりも多種多様ですね?
トルコが長い歴史の間、他に類を見ないほどたくさんの異民族と出会い、色々な民族と深く交わり、様々な文化や影響を受け入れてきたからだと考えられています。
27.部族意識の高さは、織物に影響していますか?
部族意識の高い集団ほど、衣服や家具などの仕事が緻密であり、心から敬う先祖の文化を一層高め、子孫に伝え継ごうという意識が強いようです。
糸、染、織の三拍子がそろったキリムが伝えられてきたもの、このような意識に裏打ちされた結果です。
 
28.遊牧民のキリムはどのように変遷していますか?
キリムの色の始まりは、天然の無染色です。色ごとに分け、初めは縞模様を織りました。
次に色糸を加えるのですが、美しいという装飾目的より、病気や飢餓、災難などから身を守る「まじない」の意味の方が強かったようです。
 
29.幾何学になったキリムの柄は、部族を象徴するものですか?
日本の家紋のような柄が部族の柄として、遊牧民の間で代々、織り継がれています。まじないにつながる部族の色も含め、部族を識別する柄は、世界中どこでも、重要視されてきました。
 
30.部族の柄はどのように重要ですか?
遊牧民は、毎年ほぼ決まったルートで移動を繰り返してきました。
移動は時に、すでに定住している所有地を通過します。その際、遠目からでも、自分の部族を容易に識別できる通行証の役割を果たしたのが、先導するラクダに載せた部族の家紋入りの大きな袋(チュアル)です。柄は、友好的関係を維持する必需品でした。
 

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